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标题: [日文]日経ビジネスonline 專欄:水島精二監督訪談 [打印本页]

作者: P     时间: 2009-2-26 14:19     标题: [日文]日経ビジネスonline 專欄:水島精二監督訪談

「正義」への欲望が「匿名の正論」を暴走させる
水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(1)



 頭の中で望んだことを描き動かすもの。それがアニメーション。視聴者の欲望をいかに捉えるかを、常に考えているテレビアニメの監督たちに、時代の欲望を見通してもらう連載企画「アニメから見る時代の欲望」。今シリーズは「機動戦士ガンダム00(ダブルオー)」の水島精二監督にお話をうかがう。

●作品紹介●
西暦2312年。4年前の最終決戦で生き延びた刹那・F・セイエイは、ソレスタルビーイングによって変革を促された世界の行く末を見つめていた。監視者、アレハンドロ・コーナーを倒し、争いのない平和な世界になることを夢見て。しかし、彼が目の当たりにしたものは『アロウズ』によって作られた弾圧という名の平和、歪み続ける現実であった。彼は再び戦う決意をする。世界を変革出来うる力、ガンダムと共に。
【上記は「機動戦士ガンダム00」公式サイトより引用、編集。リンクはhttp://www.gundam00.net/

―― 水島精二監督が手がけている「機動戦士ガンダム00」(以下「ダブルオー」)は、アニメ作品の金字塔とも言える「機動戦士ガンダム」に連なるシリーズですね。「ガンダム」と言えば、10代から30代を中心に、50代までのファンを抱えるビックネームコンテンツです。
 一つの産業を代表するような商品、トヨタで言えば“次世代のクラウン”の開発を任されたようなもので、栄えある抜擢と言えますね。ガンダムの監督として指名されたときのお気持ちはいかがでしたか。


水島 精二(みずしま・せいじ)
東京都府中市出身、1966年1月28日生まれ。東京デザイナー学院卒。撮影、制作進行を経てアニメ演出家。『機動戦士ガンダムOO』のほか『ジェネレイターガウル』『鋼の錬金術師』『大江戸ロケット』などで監督を務めている (写真:星山 善一 以下同)




水島 素直にうれしかったです。特に僕のような40代前半の人間は、第一作目の「機動戦士ガンダム」を見て育っている世代ですので。僕はそれほどガンダムシリーズに詳しいわけじゃないんですが、アニメの業界に入ったからには一度はガンダムに関わってみたいと思っていましたから。そういう人は多いと思います。
 ……でも今、実際に「では、あなたがやって下さい」と言われたら、躊躇する人は多いんじゃないかとも考えるんですよ。僕の所に話が来たのも、ほかに引き受ける人がいなかったからかもしれない、と。
 今、ガンダムシリーズを担当するということは、名誉なことでもある一方で、反面、火中の栗を拾いにいくようなところもあると思うんです。

―― 火中の栗? どういうことなのでしょう。
ガンダムを“作る”ことは、作り手には「リスク」が大きい
 今、ガンダムを作ることは、作り手にとって「リスク」が大きいんです。「ここまでメジャーになったタイトルは、それ故に、自分の自由には作れないだろう」というふうに、作り手側を身構えさせるところがあるのだろうなと。
 これだけ大きな作品になると、ステークホルダーが多いですから、様々な会社の意向が入るし、その中で取捨選択を迫られる。元からガンダムが好きで、思い入れが強い人ほどやりづらいと思います。監督を任されても“俺のガンダム”が作れるわけではない。自分が描いてみたかったガンダムが、視聴者や会社が求めているものと違う言われ、ギャップを感じるのも、ガンダム好きとしては辛いところだと思います。僕などはガンダムにそこまでの思い入れががなかったので、かえってよかったのかもしれません。

―― ガンダムファンからのプレッシャーを感じますか。
 今のガンダムの作り手は、お客さんに「ガンダムはそうじゃないんだよ、今作のガンダムはダメだ」というのをずっと言われ続けるわけです。

―― なるほど。先ほどの“次世代のクラウン”というたとえ話で言えば、クルマの世界でも、看板車種のビッグネームの跡継ぎゆえに、モデルチェンジは難しいでしょうからね。前のモデルと全く違うじゃないか、前のほうがよかったと、新型モデルを出す度に、以前からのお客様からはおしかりを受ける、ということですね。
「売れているもの」には脊髄反射的なアンチがいる
 それだけ作品が大きくて、寄せられる期待が高いということなんでしょうけどね。
 批判でも、種類があると思うんです。それこそ“クラウンへの期待”みたいな、「もっとこうして欲しい」という声ならばむしろ積極的に聞きたいのですが、一番最初に僕ら制作スタッフに聞こえてくる声はそうじゃないですね。
 「何だあれ」とか、「かっこ悪い」とか、“脊髄反射”みたいな反応なんです。

―― 脊髄反射だなと思うのは、どんなところですか
 なんと言いますか、作品を見て批判をしているわけではないんです。フィルムを観て物語を追おうとしているのではなく、絵だけを追って、見た目だけで批判をしてくるのですね。
 特に今、ネットで評判が広がるのがすごく速いでしょう。叩くにしても褒めるにしても「こう言えばいいんだ」というポイントが提示されると、あっという間に広がっていく。
 叩きたい人たちは、最初から「嫌い」というベクトルを持って入ってきて、ネットの中で自分と同調できる「嫌い」ポイントを探して、“叩きの流れ”に乗っかっててくるから、もう仕方がないんです。

―― ネットの評判は意識しますか。
 そうですね。意識している作り手の人は多いでしょうし、そういう意味では、ネットの“叩き”が作る側のモチベーションを下げているのは間違いないと思います。

―― それはネットだけの傾向なんですか?
 ネットが顕著ですね。この手の発言はブログよりも、匿名で書ける掲示板が多いです。
 個人のブログでは、脊髄反射のような感想はあまり書かないですよね。それよりも、大型掲示板のような、ある程度人が集まる場所で匿名を使って、作品やアーティストなどを蔑む書き込みをするケースが数多く見受けられます。この人たちは、売れているものがよほど嫌いなのかしら、と思ったりもします。
 こういう人たちは、「○○のアンチ」というよりも、「売れているもののアンチ」と言うべきなのかもしれません。
 作品を見て楽しむというスタンスではなくて、作品をはなから批判してやろうという人間が、これだけネット上に多いのだと思うと、ネットという媒体は、メジャーなものに対しての反感が相当強いのだろうなと感じますね。

―― 私たちがふだん暮らしていて、それほどひどい批判と相対する場面はあまりないですよね。ネットになると、何かが違ってくるのでしょうか。
 やはり、匿名性が高い場所だと、余計に尻馬に乗っかって書いてしまえ、というところはあるでしょうね。

―― 直接ファンから何かを言われることはありますか? ネットでそういう発言をする人は、若い人が多いのでしょうか。
 どうなんでしょう、直接僕が会った子に関しては、悪い印象はまったくないのですが。
 知り合いから、「この子たちはガンダムを見ていて、アニメの仕事に興味があるみたいだから話をしてあげてよ」と言われて会う学生さんなどは、普通にちゃんとしている子が多いと思いますよ。ちゃんと敬語が使えて、自分で質問もできて、批判的な意見も整理して伝えてきますし、こちらが言ったことに対して反応ができるという。きちんとした子がわりと多いのではないかと思います。
 そもそも悪口を言っている人たちが若い子かどうか、匿名だから分からないですよね。それは年齢云々じゃないような気がします。
「国民の非難の声」はだれが上げている?

―― ネットではなぜそうした「アンチ」になる人がいるのだと思いますか。
 昔からそういう意識の人はいたんじゃないでしょうか。アニメに限らず。社会への不満の声とか、そうした不満の声が、ネットのおかげで僕たちにダイレクトに届くようになった。匿名というマジックアイテムを使って。
 テレビとかでもありますよね。「国民の非難の声」というのが。あれもよく考えると面白い。

―― 匿名の声は、ネットに限らないということですか。
 少し前から年金問題が上がっていますよね。僕にも通知が来たんですが、僕のところでもやはり漏れがあってとても困ったんですけど、あれは福田政権下で、厚生大臣の舛添さんが手を打ちますということで実行していたけれども、福田さんと桝添さんのときに起こったことではない。過去の清算をさせられているにもかかわらず、「国民の非難」は、いま責任者になっている人に集中するじゃないですか。
 もちろん年金問題に対して、お役人は無責任だなという思いはあるけれども、それはとりあえず置いておいても、今の時代で面白いと思うのは、「国民は怒っています」という、誰が言いだしたのか分からない意見に対して、お役人や企業が謝罪をするというところなんですよ(笑)。

―― 「国民は怒っています」という声は、誰が言っているかわからない声、つまり匿名ということですか。
 そうですね。匿名による非難は、企業とか政治家とかタレントとか、とにかく対象が有名なほど標的になりやすくて。
 タレントの失言などもそうですよね。話の流れに関係なく、その発言だけが抽出されて、不謹慎だ、国民に謝罪しろと叩かれるという。かわいそうだなと思いますね。確かにその発言自体は非常識だと思います。ただ、間違った事を言いました、というのは、怒られればそれで済むことなのに、なぜわざわざ記者会見を開いて謝罪して、謹慎までしなければいけないかのと。
 ネットで騒ぎになっていることをマスコミが拾ってきて、さらに騒ぎが拡大して、国民に非難された側が取りあえず謝罪をして、肝心の、原因となった大本の部分は分からないまま終わる、という。あの構図は不思議だなと思います。
 国民に指摘を受けた側も、誰に対して謝罪しているのかわからない。真に謝罪すべきは害を被った人たちではないのか、という。「社会」に向けて一応の謝罪をしているんだけれども、その「社会の憤り」だって、本当に、社会にいる人全員が憤っているのかはわからないわけですよね。

―― 怒っている人が誰なのかよく分からないままに、謝罪が行われると。でも、国民の非難の声というものは、今に始まったことではないですよね。なぜ今は、対象になった人々が謝る時代なのだと思いますか。
 どうしてなのだろうかと。そういった風潮が顕著になったのは、ネットが出てきてからだと思います。ネットというのは、誰が発言しているのかが分からなくても、もっともらしいことが書いてあると、わりあい簡単に、皆が「そうだよな」と納得したり飲み込んでくれるメディアなので。

―― そうなんですか?
 ネットだと、ある種、集合体のように見えるんです。集合体に見えるから、「これがみんなの総意なんだ」と思いやすい。

―― 確かに匿名の場では、たくさんの書き込みがあっても、もしかしたら“声が大きい”一人が何回も書いているかもしれないですよね。その可能性があるかもしれないのに、ひとつのまとまった“世論”のように見えると。
「理屈さえあれば勝てる」、だから空虚な正論が力を持つ
 ネットの登場によって、匿名の意見が、ある種の説得力を持ち始めたという感じはします。匿名なのに効力がある状態というのは、ネットが登場するまではあまりなかったことだと思っています。
 普通の紙媒体、たとえばビラなどは受け取られ方がまた違いますよね。「これは特定の個人の意見なんだ」と思うから、同じ悪口でも説得力を持ちにくい。
 また、発信者が匿名の場合、批判されにくいという側面もあるんです。たとえば新聞に載っている主張だったら、批判ができます。発言が「その新聞社による主張である」という形になって、○×新聞社というバックボーンが見えてくるから。会社が背負っている背景が見えると、「この新聞社は過去にこういう事件を起こしているから、こんな意見を述べる正当性はない」といった理由で、批判する人が出てきますから。
意見だけでも「正義」になれる
 ネットにおける「匿名」の人物というのは、当人の立ち位置がわからないから「対象」として批判することができない。だからネットで強いのは、「匿名」の「正論」なんですね。
 裏付けや背景といったバックボーンがなくてもいいもの、頭の中のバーチャルな理屈だけで完結するもの、誰しもが正義として寄り添えるもの、そういった「正論としか言い様がないもの」が一番の武器になっている。
 だから、匿名でいられない有名人や組織は、失言に対して抗弁しようのない「正論」で突っ込まれたらかなわないと、皆、戦々恐々としているのかなと。

―― 「正論を言えば、相手が屈服する」、という図式がネットの中では成り立ちやすいのでしょうか。見えないネット市民が怖いという状況ですね。
 どのような人間であるかというのはまったく隠された状態で、意見だけが正義として現れるというのが、わりと今の時代の象徴なのかな、と。そちらの企画のタイトルに合わせて言えば「時代は“正義”を欲望している」んじゃないでしょうか。
(次回に続く)

[ 本帖最后由 P  于 2009-2-26 14:23 编辑 ]
作者: P     时间: 2009-2-26 14:24     标题: 「すべてが他人事」の環境が、欲望のスタイルを変えた

水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(2)

―― “ビッグネーム叩き”という現象があるというお話をうかがいましたが、何か「巨悪」みたいなものを見つけて批判を繰り返す行為は、どうして起きるのだと思いますか。やむにやまれぬ正義感でしょうか、それとも日常で抱える不満のうっぷん晴らしなのでしょうか。
水島 両方じゃないでしょうか。「批判することで良くなるかもしれない」という思いは、心の中にあるでしょう。自分は憂さ晴らししているだけなのだと思ったら、寂しくなりますからね。自分の中で、どこかに正義を保てないと、俺、何をやっているんだろうというところにいってしまうと思うんですよ。人に批判の言葉を叩きつけるためには、そこになにがしかの「正義感」を持っていないと難しいんです。

―― では、その正義は、どのような拠り所に支えられているのだと思いますか。
匿名の正論は、実行できない

 自分が言っていることが、いわゆる「社会の正義」に同調したものなのだと、そういうふうに思いたいのかなと。
 叩きをする人たちは、ネットが“民意の集合体”のように見える構造を利用して、一番分かりやすい真っすぐな「正義の言葉」を投げてくるわけです。見ていて興味深いと思うし、これが今の時代性なのかなと思います。

―― それが「時代は“正義”を欲望する」ということですね。
 でも、正論を言う人が、本当にそのように行動できているかというと、それはまったく別ですからね。
 正論はあくまでも論でしか無くて、実際に、その通りに行動してみろと言われたらできない人がほとんどですよね。

―― 確かにそうですね。
 たとえば、どこか名前の知られた組織がミスや事故を起こして、それに対して批判が出て、社員が謝罪するというパターンがあって。ネットでよく見るのは、その組織に所属している人間を徹底的に批判することなんですが、批判する側は、いざその批判を自分が受ける側になったらどうするかというのは考えていないんですね。
 批判をする側は、自分の発言をいわゆる社会正義だと思って書き込むんですけど、その個人に対して「あなたは失敗したことはないんですか?」と問うと、みんな、おっとって引いちゃうと思うんです。

―― それはなぜだと思いますか。
 それは言葉に、「自分の行動」というバックボーンがないからです。「その時、自分ならどうするか」という肝心なところがないと、机上の空論になってしまいますよね。頭の中のロジックだけで考えた正論というのは。

―― 社会正義と個人は別物と。「自分ならどうする」というところが肝心なんですか。
 そうですね。それが発言に責任を持つ態度だと思います。
 ネットというのは、名前を伏せて発言ができるから、言いっぱなしになれるというのが「いい」んですよ。発言に相応しい行動をとっているかどうかが問われない、安全なところにいられる。だから叩かれない。自分の身に危険が及ぶというのは、名前をさらしているからこそじゃないですか。
 匿名というのは、名前=「自分」がいなくていい状態なんですよ。
 「人ごと」として発言できるから、その分、無責任になれる。言ったことに、責任を取らなくてもいいという。責任を取らなくていいというのは、現実にはなかなかない場ですよね。
無責任に発言できるメリット・デメリットが社会を大きく変えた
 だから匿名はダメだ、発言は必ず実名にしろ、ということを言いたいんじゃないです。無責任に発言できるということには、もちろんメリットもある。そしてこうした怖さもある。両方を含めて、ネットが利便性だけでなく、欲望やモラル、社会の雰囲気に至るまで、すごく世の中を変え、動かしているのを感じますね。

―― それは監督自身も…
 自分自身も、こうした変化にはものすごく影響を受けています。それはもう自覚した上で、作品作りをしているので。

―― やっかいな時代の欲望と向き合うわけですね。
 ただ、批判を繰り返す人に言いたいのは、ネット上では「正論」は強力な武器になるとしても、それが無記名な、名前を隠している発言である限り、世間での評価というのは、実際には低いんだよ、ということですね。
 やっぱり無記名であるが故に、そのときの会話、その瞬間だけのこととして落ち着いてしまうんですよ。

―― 責任が発生しない以上、その発言はあまり信用できないということになるのでしょうか。
 そう思います。
 いくら社会正義を説いたつもりでも、名前を出していない人の発言は忘れ去られるという。
 残念ながらそれは、「当人の存在自体が小さい」ということに繋がりますよね。記名で、自分の意見をきちんと言える人になったほうがいいんじゃないかと思います。
 「ダブルオー」に対する批判についても、いくら評論家みたく批判をしていても、誰が書いたかわからないのでは、僕らも信用しようがないというところがあるんです。だから実は、匿名の掲示板で批判を繰り返していても、まったくそれは、相手にとっても自分にとってもプラスにならないんですよ。自己満足をしているだけで。
「理屈」で勝つ、あんまりな虚しさ

―― 発言者の立ち位置を切り離して、理屈のみで「勝って」も、ダメですか。
 それは、匿名というのは、絶対「負けない」立場ですからね。それでは最初から議論にならないです。
 もし、作り手を刺激するようなことをどんどん言える人だったら、それはもう記名で文章を書く人になればいいじゃない、と思うわけですね。リングに上がっていらっしゃい、と。そんなに今のアニメを変えたいと思ってくれているのだったら、ちゃんと自分の名前という看板を背負ってやればいいのに。そこが僕はもったいないなと思います。

―― 自分の看板を背負うというのは、発言に責任を持つ「当事者」になるということですね。
 そうですね。どんな場でも、社会になにがしかの影響を及ぼそうと思ったら、匿名でいられることってほぼないですからね。
 自分も傷つく覚悟がないものは価値がないと思いますし、どんなに真実が書いてあっても、そこはやはり評価されないものだと思うので。
 でも最近、こういう無責任さというのは、ネットだけじゃなく日本全体に広がっているんじゃないかと感じるんですよ。
すべてが「他人事(ひとごと)」めいてくる

―― 責任を取るということは、リスクを引き受けるということですよね。
 もう懐かしいような話ですが、福田さんが首相を辞任したときは驚きました。えっ、辞任なの? こんなタイミングでと。安倍さんもすごい幕の引き方だったけど、この人は、何しに出てきたんだろう、という感じになっちゃいましたね。
 そのとき思ったのは、ああいう降り方がまかり通ってしまうと、今後日本の首相は、自分がやばくなったら降りてしまうんじゃないの、ということでした。政治を「他人事」みたいに考えてしまって。
 まあ、他人事みたいな語り口と言えば、国民だって、アイツはだめだとか、いろいろ言いたい放題ですから同じなんですけれども。われわれ国民も冷たいですよね。自分の国なのに。

―― そうですね。そこが不思議な面でもありますね。首相のように、責任のある立場に就く人に対しての“叩き”が、トップに行けばいくほどひどくなるという。
 今、国民自体が、知るべき事をすべてを知った上で首相の仕事を語れというのは、もちろん無理なのだろうけど、でも、結局は自分たちがトップを選んでいるという部分を含めて「無責任」になっているんだろうなと思います。
 そういう視点で見ると、国民のモラルというものがもう少し大事にされてもいいんじゃないの、と。国民が政治に参加すること、一人一人が社会に参加することの意義をもう少し見直した方がいいんじゃないの、とは思います。
 皆が社会の問題を、自分の問題として自分の頭で考えていたら、世の中はもっと良くなっていますよね。政治に対してももっと関心を持って具体的な発言が出るようになると思うし、企業が裏でしていた行為が浮き上がってきたときの対応も、まったく違うと思うんですよ。

―― これまた、ある程度は当事者になろうよ、ということですね。……これは私個人としても耳の痛いところで、政治や社会の出来事が、自分と直接関係があるものとはなかなか思えないのですね。どこか「他人事」だと思ってしまう。遠すぎると言いますか。
実感なき社会が関心なき若者をつくる
 それはですね、「今の若者は政治に関心がなくていかん」とさっきまで言っていた僕だって、実は昔はたいして考えてなかったですからね(笑)。
 自分も考えていなかったら、若い人の関心のなさがよく分かるんです。だから政治に無関心な若い人たちを責められないんだよな、と思っていて。いや、政治には興味なかったです、35歳ぐらいまでは。世の中が悪いと思ったこともなかったし、今もそれほど悪いとは思っていないんですけど。
 ただ、「国とか上の方が、何をやっているのか分からない」という国民の心理は本当だと思うんです。

―― どこか社会に対して「人ごと」感がぬぐえないのは、社会と自分との間に乖離があるからなのかもしれません。
 それは個人が、社会との繋がりや与える影響を実感できていないからだと思いますね。
 今の世の中、情報はあふれている。だから情報を摂取しただけですべてをわかった気になってしまう。ネットで“責任を伴わない正論”が出てきてしまうのも、同じ理由だと思います。

―― なるほど。
 自分と関わりがないことだと、頭の中のロジックだけで完結してしまうんだと思います。だから行政や政治について、机上の正論をたてに攻撃するだけになってしまうという。
 でも言いっぱなしというのは、社会に対して責任を取っていない姿勢だと思うのですが。
とにかく「ショートカットしたい!」

―― 今、若い人を見ていて、どんな欲望を持っていると見ていますか。
 それは「ショートカットの欲望」でしょう。端的に「面倒を嫌がっているな」と思いますね。実際に、世の中が便利になって、いろんな物事がショートカットして進められるようになってしまいましたから。これは効率化、情報化の弊害のひとつじゃないかと思うんですけど。
 情報が、ネットなどのツールを使って簡単に手に入ってしまう分、苦労をしてそこまで行き着いたという、やっとの思いで手に入れた、という感動を得にくいですよね。簡単に見ることができて、簡単に知ることができてしまうから、対象に対しての思い入れも少なくて「わかった気になってしまう」。その分、いろいろなものに対して“薄く”なってしまっているのかな。感動自体が少ないのかしら? という。もったいないなと思います。

―― 今の世の中は、良くも悪くも物事をショートカットして一定の結果を得ることができるようになりましたね。
 面倒がなく一足飛びにそこに行けてしまうから。
 でも感動に至るプロセスというのは、ある程度自分自身がストレスになるようなことだと思うんですよ。ショートカットが欲望の味を薄めることは、間違いないと思う。
(次回に続く)

[ 本帖最后由 P  于 2009-2-26 14:26 编辑 ]
作者: P     时间: 2009-2-26 14:27     标题: ショートカット志向にどう立ち向かう?

水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(3)


―― 今の時代に優勢なのは「手間をショートカットする欲望」だけれども、本当は「面倒」を引き受けると、作品や組織が豊かに育つと。そのようなお話をうかがいました。
 「ショートカットの欲望」を抑え、回り道や手間を惜しまないことが、いい成果や、あるいは感動をよりおいしく味わうことにつながる、と。けれども、日々仕事をしていると、やはりショートカットのほうがいいじゃないか、と思うことがありますよね。特に結果へのプレッシャーが厳しかったり、忙しい、人手がないなど、時間や人材のリソースがない状況ですと。
 楽な方向へ行きたいという欲望は人間の不変のものでもあり、手間のショートカットや効率化は、そうして進んだという社会的側面があります。正しいと思っても、自ら進んで非効率の波をかぶって人と折衝したりすることは難しいと思いますが……。ご自身でも、そう思うときはあると認めていらっしゃいますよね。どのように立ち向かうのでしょう。

水島 きっと、「面倒」を「最後まで苦痛に耐えること」だと思うと、できないのでしょうね。
 努力というのは、「努力だ」と思ってすることなのか、という思いもあるんです。

―― どういうことでしょう。
 自分が将来何かになりたいとか、こんなことができるようになりたいと思ったときにする行動は、実は当人は、案外「努力」だと思っていないのではないでしょうか。
 逆に、自分のためにすることを「努力だ」と公言している人に限って、どうも「今俺はこんなに努力しているんだ」というところだけで満足してしまって、最終的には結果が出せない、そんなケースが多い気がするんです。

―― 辛いことに耐えているだけでは、続かないということですか。
 そうですね。これも面倒を引き受ける話と同様に、最後には感動が待っているから続けられるんですよ。ほら、物語のセオリー的にもありますよね。主人公にとって辛いことがあって、その反動があるから、ラストには彼にとって豊かに思えることがぐっと輝いて見えるという。辛いことがないと感動もないんです。

―― 日々の辛いことに耐えられるのは、到達するべきビジョンがあり、そこに感動が待っているということを信じられるからだと。
 努力は辛いときもあります。辛いのは当たり前なんです、何かを成そうとしているわけだから。それは当然辛いでしょうと。
 だから、努力を努力と思ってしまっているうちはだめなんですよ、楽しめなきゃいけない。
 よく現場で若い人にも言います。「辛い辛いと言ってやったら、面白いものなんてできないよ。辛いことを楽しむのが、自分たちにとってプラスになるんじゃないの」、と。
 ストレスがかかっているな、辛いなと思っても、この先にはきっといいことがある、自分はそのために今頑張っているんだから、過程も楽しまないと、ということは若い子にも言いますし、自分自身もそういう考え方で来ているんですね。
 だって、辛いと思って仕事をするのは嫌じゃないですか。自分がなりたいものや、やりたいことがあってその仕事をしているのだから、そのために必要な過程があるなら、もう頑張るしかないですよね。
若い子に、やりたいことを聞くのも経験者の務め

―― 若い人の気分として、将来就きたい仕事が浮かばない、自分のやりたいことを仕事で実現するのは無理だ、という空気が広がっています。
 何で自分はこんな仕事をやらなくてはいけないのだろうと不満を持っていたり、仕事先に対して怒っていたりと、そういう若い人の話も耳にしますが。
 わかります。そういう人は、早く自分のやりたいことを見つければいいのにな、とは思います。
 でも、仕事の不満を持っていても辞めないんですよね。ということは、言葉にはできていないけれど漠然とでもその業界にやりたい「何かがある」からじゃないのかなと僕は思います。
 やることが全く浮かばない、やる気がない子というのは、世間で言われているほどたくさんいるのかなと。
 よくある“大人の言い分”みたいな、若者に対してだめだと決め付けてしまう風潮もどうかなと、僕なんかは思いますね。

―― 監督は、アニメ制作を通して直に若い人と接することが多そうですね。
 同年代のなかでは多いのではないでしょうか。僕の場合は、若い子と接する機会があれば、できるだけ声をかけて、どんなことをやりたいの? と聞くようにしています。
 「映像演出をやりたい」と言う子がいれば、演出家になるために、今何をしてる? 演出というものを漠然と捉えてない? と具体的な話にできるよう心がけてます。
 自分の中にやりたいことがあっても、思いが言葉にならない子もいて、こちらが促してあげることで具体的な形で出てくるんですね。

―― 目的を持っているのに、外に出る形で表現できない子もいるということですね。そしてそれは、“かつての経験者”が言葉に出せるように促してあげることに意味があると。
 目的がないと言う子もいるので、そういう子には、「あなたは何をやっているときが一番楽しい?」と聞いてみたりします。仕事なんかよりゲームをやっていたいと思っている子なら、「ゲームをやるためにはお金が必要だから、稼ぐことを考えたら?」とか、現状、仕事自体に目的はなくても、それが見つかるまでの間としてそういう言い方はできるんじゃないかなと思います。
 辛いことの後には感動が待っているという、それを理想論として振りかざすんじゃなくて、「目的を持って続ける努力は、必ず実になるものだ」ということを若い人が“信じられる”ようにすることも、経験者の務めじゃないかと。
 だから、若い人に目的を見つけさせるのは、昔は、“おせっかいおやじ”のような、大人の役目だったんじゃないのかな、と思いますね。
 今の時代は、ショートカットの欲望の増大に反比例するように、若い子に対しておせっかいな物言いをする大人が少なくなっている気がします。昔だったら、周囲の大人が若者に対して相談に乗っていたのかなと。
 大人が相談に乗ってあげることで、若い人も、おのずと自分が何をするべきか、社会が自分に何を求めているかまでを含めて考えられたと思うんです。今は、周囲の大人にかまってもらえない子たちが自分の行き先を見つけられなくて、悶々としているというところはあるんじゃないかと思います。

―― 今は、他人のことに口を出す人が、大人も若い人も少なくなった気がします。
 若い人がやりたいことを見つけられるように、周りの大人がうまく接してあげればいいだけの話なんですけどね。今の時代でも、大人と若者は関わりを持とうと思えば持てるんですよ。若者の周囲には、今も昔も、アルバイト先の先輩のような気軽に話しかけられる年長者は大勢いるわけですから。
 国まで重い腰を上げて「若者に目的を与えるには」とやっているけれども、本当は国策でどうこうするよりも、周囲の大人ひとりひとりが、若い子たちに夢を持たせてあげようとか、現実の厳しさを教えてあげようとか、すこし意識して接してあげればいい、それだけのことだという気がします。

―― 若者が社会参加をしていないぞと「社会問題」として憂うぐらいなら、自分の身近にいる若い子に声をかけてみようということですね。
 そうですね。現状を変えていくためには、意識するだけでも違うと思うんです。僕も、若い人に対しては、メールでも何でも、何かを書いてきたら答えてあげるよというスタンスでいます。

―― 大人が、どうして「おせっかい」の役目から降りてしまったのだと思いますか。
 嫌われたくないからじゃないですか。
 それに、若い子たちは、徒党を組んでうるさい大人たちを弾こうとしますから。若者が大人を弾こうとするのは昔からなんですけれども、今の大人たちは、弾かれたときに、もう一度、彼らの中に強引に分け入っていくことをしないんですね。そこまでする度胸がなくなってしまったのではないかと。それは僕もそうなので気持ちがわかるんですよね。
お互いの顔を知っていてこその「関係性」

―― 今は、大人が若者と向き合わない、それはなぜだと考えますか。
 他人に対する興味が薄れているというのが大きいと思います。下手に介入しないほうが楽でしょう。
 そうして、個人と個人の関係が希薄になっている。
 僕たちの仕事でもそうですけど、今はメールやブログ、SNSと、お互いの顔を見なくても情報のやりとりが可能になりましたよね。人の顔を見なくても情報を伝えるすべができたのは、便利である一方、相手の感情が読み切れなくなってしまったんじゃないかと。顔が見えないために、さまざまなすれ違いが起っている。今は、誰もがそれで失敗した経験を持っているし、弊害もわかっている。でも便利だから使っているというところなんじゃないかなと。

―― 「相手の顔が見えなくても、相手のことを知った気になる」というのも、今の時代の特徴なのかもしれませんね。
 情報の多さゆえ「一方的に知っている」とか「気づかれずに知っている」ことがある程度可能になりましたよね。
 でも、本当の関係性って、お互いがお互いを知っていることなんじゃないの、と僕は思うんです。良好な関係という意味でです。

―― その関係性というのは、基本的に、お互いが相手の顔を知っているところから始まる。自分の顔、知識、経験を見せずに、相手のそれを知っている(と思っている)ような、一方通行のものは「関係性」とは違うということですか。
 だと僕は思います。
 こういうロジックでお話しすると、たいてい「匿名」を否定するみたいに誤解されるんですが、匿名でなければ言えないこと、盛り上がらない議論だってありますから、選択肢の一つとして「匿名」を持つことはありなんです。要は、そこは「匿名」でいるべき状況なのかどうかを考えてみようよ、ということです。
 もし、「関係性を作る」、という目的の場合なら、匿名はハードルが上がると思います。どうしても信用しづらいですから。

―― 誰しも、よくわからない相手とは、心から仲良くなろうとは思えないということですね。
 不安ですからね。もちろん、そこで匿名で交わした発言はすべて否定するものでもないし、得るものがないわけでもありません。それは批判であっても変わりはない。

―― 何も知らないから言えること、もありますよね。自分が相手を知り、相手が自分を知ってしまうと、その人の持つバックボーンや事情が分かるから、軽々に批判はできなくなるかもしれない。
 そうですね、でも、おなじ批判であっても、そういう「相手の考え」や「事情」に興味を持ち、知っている「関係」の相手の意見のほうが、聞く耳も持てるし、自分の考えを変えようと思うこともできるのではないでしょうか。

―― 監督が話されている「匿名」というのは、顔や名前を知っていればOK、という意味ではないですね? 会社で言えば、お互いの顔を知っているメンバーであっても、地位や役割などの「社内的な関係」だけで止めておくのであれば、ある意味「匿名」と大差ないかもしれません。
 すくなくとも、なにか世の中にないものを生み出そうという場所では、地位や役割のような「匿名性」は外さないとだめだと思います。ちゃんとお互いに、自分の知識、経験、顔を見せて意見を言い合うことで、皆の思考がうまく回って、より大きな何かを得られることが絶対にある。
 そういう訓練とか関係値が、今の時代は薄いんじゃないかと思います。
自分が信用している人の言葉だから、信用できる
 というのは……現場にいると、自分の言葉が、予想以上に他人に響いているんだなと感じることがあるんですよ。
  ひとつの作品が終わった後で、スタッフに「今回の仕事がうまくいったのは、実は水島さんにああ言われたことがきっかけだったんですよ」と言われることがあります。でもこちらはちゃんと覚えてなかったりしてね(笑)。これは僕の言葉に力があるというよりも、互いの関係性が深いから、予想よりも響きがいいんでしょう、きっと。
 逆に、僕も相手の言葉に影響を与えられることがあります。あるとき、親しい間柄であるアニメ制作会社の社長から言われた言葉で、心に引っ掛かったことがあったんですよ。「お前、(絵)コンテうまくないんだから、人に任せればいいんだよ」と、言われて(笑)。
  それは僕はコンテを描くなということなのか?と。 それならコンテを描かずに僕のフィルムにしてやろうと工夫をし頑張ってみた。出来上がった作品を観た社長が「良いね、水島らしいフィルムだ」と。なので、「コンテを描かなくたって自分のフィルムになりますよ」と返したら、「えっ、何のこと?」と(笑)。「だって、社長、僕にコンテを描くなと言ったじゃないですか」「え? そんなこと言ったっけ」って(笑)。言った当人は忘れていて。今思えばスケジュールがタイトだったのとボリュームが多かったため、リスクを分担するための、上の人間としては、当たり前の言葉なんですけどね(笑)
 だから恐らく、僕の投げた言葉に対しても、スタッフの中で同じような反応が起こっているんですよ。軽い気持ちで、もうすこしこうした方がいいんじゃない? と言ってみたら、当人にとってはそれがすごく重要に思える指摘だったりして、悩んだ結果、非常にいいものが出てきた、とか。
 それを僕が、無意識に褒めたりするんですよね。おっ、いいじゃない、と。すると、「それは、あのとき水島さんにこう言われたからで」と返ってくるんです。

―― 何気なく言った言葉が響くのは、その人との関係がうまくいっているからなのでしょうね。
 そうですね。自分が信頼できる人の言葉なら、信用できるじゃないですか。それは、言った人の社会的な立場が偉いかどうかなんてことは全く関係なく、信用できるんですよ。
 「自分がその人を信用している」という信頼だけで、その人の言っていることがすごくいいように取れるし、苦言に対しても素直に耳を傾けられる。そういう信頼関係があると、その人が無自覚に言った発言でも、自分の中に響くことが絶対にあるんですね。

―― 顔を見せない匿名な「関係」は、個人の持っているパーソナリティーを全部切り離してしまっている状態なんですね。だから信頼できない。信頼できない相手だと、その言葉がロジックとしていくら正論でも、相手の胸に響くことがない。
 直接顔を見て知っている人に言ってもらうことで、言葉の精度がぐっと上がる。だからやっぱり顔を向かい合わせて話すことがいいんだと思います。
 もし相手に自分の思いが通じていないなと感じたら、メールで伝えるんじゃなくて、会って直接話す。
 物事の解決方法って、実は「会って直接話す」ことが一番シンプルで一番いいんだと思いますよ。会うのが無理ならせめて電話。感情まで伝わるものがいいんだと思います。「ショートカットの欲望」に抗するには、「ダイレクトな接続」しかない。ショートカットを求める世の中に、ダイレクトな接続を作品で訴えていくのは、難しい仕事になりますが。

(次回に続く)
作者: P     时间: 2009-2-26 14:29     标题: 人を育てない組織は必ず復讐される

水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(4)


―― 「『ショートカットの欲望』に抗するには、「ダイレクトな接続」しかない。ショートカットを求める世の中に、ダイレクトな接続を作品で訴えていくのは、難しい仕事になりますが」と監督はおっしゃいました。
 ショートカット、すなわちコミュニケーションにつきものの面倒を避ける志向と言い換えてもいいと思います。世代に関係なく、「おせっかい」的なことをやらない人が増えている。実感として頷かれる方も多いのではないかと。そんな社会に作品を提供していくための、監督の処方箋はどんなものなんでしょう。
水島 作品をつくる方法論でもあるのですが、個人的には人間って、「楽をしたい」よりも「感動したい」のほうが欲望として大きいし、うれしさのリターンもずっと大きいと思うんですよね。だから「面倒は楽しいことだよ」と、あえて言いたいんです。

―― 面倒が楽しいというのは、「お仕事」でも感じることはありますか。
「あなたはアニメ監督、どんなスタッフを選びますか?」

 ありますよ。あえて面倒にしたいわけではないのですが(笑)、やりたいことをしていくと、結果的に面倒が必要になるということで。
 たとえば、あなたがアニメの監督だったとしましょうか。自分の仕事を楽にして、しかもクオリティを上げたい、と思ったら、どうするか。おそらく仕事の経験値がすくない人ほど、スタッフはその分野の第一人者を揃えればいい、と、つい考えてしまうんじゃないでしょうか。
 僕はどの作品を作るときも、主要スタッフの人選は基本的には全部自分でするようにしているんですけど、その理由は、アニメの制作は単に優秀な人を集めれば良い……というわけではないからなんですね。

―― と、言いますと。
 1人1人が職人ですから、優秀な人ほど、自分のやり方で良い仕事をしたいと思っています。
 でもアニメは集団で作る。しかも共同作業、連携作業がすごく多い。
 職人さん同士でやり方が違うから、優秀な人を集めれば、個性の強い人も集まってくる。僕とスタッフさん、そしてスタッフ同士でも食い違いが起こるんです。

―― では、スタッフを集めるときは、なるべくケンカが起こらない相性の良い人を……。
 それも違います。ケンカがない、面倒がない人ばかりそろえるということはやらないです。優秀だけど穏やかな人、優秀で癖の強い人、いろいろいますが、全ては組み合わせだと考えるんですね。
 だから、無駄にケンカが起きる組み合わせはしないようにしています。この人とこの人はすごく優秀だけど、恐らくぶつかってしまうだろうと思ったら、最初からそういう組み合わせにはしないように工夫します。
 でも、穏やかな人ばかりでそろえたりはしないですね。僕の言うことを全部聞いてくれるような人ばかりだと、すごく型にはまった安パイなものでまとまってしまうのも分かっているので。これは自分の、過去の経験からわかったことです。

―― 監督の言うことを聞かない人も取り込む。それでは「面倒」も起きますね。たとえば、でき上がってきたものが、ご自身が考えていたものと大幅に違ったりすると、ときには苦言を呈すなど、マイナスなこともスタッフに言わなければいけないですよね。「君、ここ、よくないよ」というような……。
言うことは言う、言い方は選ぶ
 言っていますよ。僕はわりと正直な人間なので、そういうときに言わないといけないと思ってしまうんですよね。怒ることはあまりないのですが、どうしても必要なときは、「ここは、こういう理由があってこっちのほうがいいと思うんだよね。変更できないかな」と。

―― でも、中には「自分はこれが正しいと思いますから」、と難色を示す方もいらっしゃるのでは。
 もちろんいますけれども、そこは根気よく。または該当部分の作業からは外す。そのどちらかですね。ここはどうも意見が合わないようだから、他の部分をやってもらおうかな、と。
 でき上がりを見て、僕が思っていることと外れている場合は、それは自分で自信を持って世の中に出せないものになってしまいます。ですから、もし変えてもらえない場合は、ルートとしては、たとえば作画スタッフだったら、立場がひとつ上の作画監督さんに相談してみる、という方法もありますね。
 でもそこまですることはほとんど無いです。俺のやり方が絶対、という人はほとんどいないですね。単純に実力がなくて変えられないという人はいるのだろうけど、ちゃんとした技術を持っている方は、話をすると、うん、分かりました、と言って頑張ってくれることが多いんです。

―― ロジックだけでなく、実際には同じ話でも、伝え方一つで相手の受けとめる印象が大きく変わりますよね。
 そこは気を付けています。やはり相手を怒らせてもいいことはないので、どうしたらこの人が僕の言うことを聞いてくれるかな、自分の言っていることを理解してくれるかなと考えますよ。相手のキャリアや性格を問わず、どんな相手でも。

―― こんなタイプの人であればこんな形でお願いしてみるというような、具体的なメソッドはありますか?
 メソッドですか(笑)。たとえば、付き合いの浅い人には丁寧に話をしますし、付き合いが深くなってきたら、もう“暴力的”に言ったりしますよ(笑)。
 たとえば、若手で付き合いが長い子だったら、「お前、そんなことやっているからうまくならないんだよ」、とわざと言ったりね。
 そうやって、相手がえーっ! とびっくりするようなことを言っておいた後に、「いや、だからね」と、ちょっと優しい口調で入るとか(笑)。それは相手との付き合いが長くて、本人がどう反応するのか分かっているからできるんですけどね。向こうも、「水島さんがこういう言い方をしたときには本当に変えてほしいと思っているんだな」と分かるわけです。過去に僕と一緒にそうしたやりとりを通過してきているから。
 ほかにも、「うーん、よくない」と、悩んでいないのに悩んだふりをして言ってみたり。そうすると、相手は「言外に、もっと何か言いたいことがあるんだな」と感じるし、そう感じさせるような言い方はします。そうしたテクニックは普通に日常的に使います。一緒に誰がいるかによっても言い方を変えますし。

―― 誰が一緒にいるかで、同じ内容でも、言い方が変わるのですか。
 変わりますよ。「こいつはライバルに対してどう思っているか」というのがあるじゃないですか。もし同じ職種で歳が近いスタッフがいて、ふたりがライバル関係だったら、ライバルがいる前であまり強い口調でダメ出しをしたら、やはりプライドが傷つくんですよ。だから、「君のやっていることは認めているけれども、もうすこしこんなふうにできないかな」と優しく言ったりします。
 時と場合やその子の性格によっては、ハッパを掛けるために、わざとライバルの前で「お前はこいつに負けているよ」と言って発憤させるということもしますね。
 もちろん順当に行かないときもありますよ。スタッフと大ゲンカすることもありますから。
面倒さを支払って手に入るのは「予想外」

―― さっき「メソッド」と言ったら監督はお笑いになりましたけれど、結局、コミュニケーションは「相手との関係性」と「その場での反応」にかかってくるから、個々のケースで対応を考えるしかない、ということなんでしょうか。
 他人とのコミュニケーションに、なにか原則的なものがあるとすれば、自分の側は相手にどういう態度で向かうか、という点でしょうね。
 僕は、自分自身の気持ちと相手に言うこととの裏表をできるだけなくそうと思っているんです。
 そのうえで、相手に納得してもらえるように伝えたいから、自分の中でこうしてみよう、ああしてみようと試行錯誤している感じです。でも当然、すべてがうまくいくわけではないですから。うまくいく場合もあれば、だめなときもあります。だめだと思ったらすっと引く。
 先走り過ぎて、最初のアプローチの段階で失敗したこともありますよ。相手の出方をもうすこし見てからにすればよかったなと反省したり。本当に難しいですよ。

―― アニメの監督に限りませんが、マネジメントはスタッフと密な、“面倒”なコミュニケーションを強いられますよね。嫌になることもありませんか。
 でも、自分が思うままにスタッフに動いてもらってフィルムを作れば、確かに面倒はないのですが、自分が面白いと思えるものにはならないんですよ。
 自分がいくら考えたって、優れた人間の考えには勝てない、僕はそう思っているんです。それならば優れた人間といかに仕事をしていくかを考えますよね。自分が出せるものだけで勝負するのは嫌いなんです。いろいろな人の意見を聞きながら、より面白くなる方法を考えていった方がいいかなと。
 自分がすごいと思う人、面白いと思うプロット(原案)、そうしたものを自分の仕事に取り込みたいと思うのは、結局は、「自分にないもの」がそこにあるから。自分にないものを取り込むと、予想外のフィルムができるんです。
 人と組んで、あれ、うまくいかないな、こうしたらどうだろう、なんて試行錯誤しながら取り組んでいくと、自分が想定していた範囲を越えた、予想外のものができ上がるんです。そういう予想もできないところから生まれる感動の方が、より大きな感動につながると感じるんです。

―― スタッフとの関係を密にすると、思い入れも深まる。「手をかけた」という思いが、スタッフと作品への愛情を育むということもあるのでしょうか。
 だと思います。優れたストーリーテラーがいて、優れた絵描きがいて、僕は監督として、その人たちが作ったものを、時間などさまざまな制約の中で、いかにフィルムに落とし込んでユーザーに届けるかという仕事をしていると思っているので。
 組んでいる人と新しい仕事をするたびに、その人のいいところを見つけるのも楽しいし、多くの人間に関わってもらいたい。組んでいる人たちが面白いと思ってくれることを作品に落とし込める「環境を作る」のが僕の仕事だと考えています。

―― 作品の前に、環境を作るのが仕事ですか。
 環境作りは特に大事だと思います。世の中の「ショートカット」化がますます進んでいる今は、意識してやらないと。
人を育てる「面倒」を嫌う、組織のショートカット志向

―― 前回お話に出てきた「ショートカットの欲望」とは真逆の発想ですね。では、スタッフとの関係性や環境作りというのは、会社や組織にも置き換えられるのでしょうか。
 そうですね。会社ということでは、僕のような会社と契約している外部スタッフから見ても――外部スタッフだからなのかな――思うことがあるんです。
―― と言いますと。
 「最近、会社の若い子が育っていないな、どうも外部の人間にまかせておけばいいと考えているんじゃないか」と思うことがあるんです。特に、大きな会社で。
 大きな会社では、社内の人間が該当部門の仕事を把握していないにもかかわらず、なんとか回っていってしまう、というケースがあります。それは、外部の人が人知れずフォローをしてしまうから。
 お互いに助け合うということであれば、会社同士でも、個人と会社間でも、関係として正しいと思うんですけれども、もし社内の人材が育っていないために外部の人にフォローをしてもらっていて、会社側がそのことを自覚してなかったとしたら……。自覚してないことは問題でしょうという。

―― 「若い人が育ってくるのを待つよりも、外から能力を買ってしまえばいい」。今はあらゆる企業で、そうした例が見受けられます。下の世代を育てない……考えてみれば、その方が手間もかからず「楽」ではありますよね。
 でも、それは会社としては大きな損失をしているんですよね。社内の人間が把握していないと、何かあったときに対応不可能でしょう。そういう意味では、会社の在り方も、「無責任」になっているなと思うんです。

―― 会社組織も、お金で「ショートカット」できるものならと、そっちに走っている。
 本当は、大きな企業ほど、人材育成にお金と時間を使える余裕があるはずなんですが、実際には、大きな企業ほどそういうところを気にする人が減っている気がするのです。やはり根本的に面倒だと考えているのではないかと。面倒だと思うことが、恐らく一番よくないことなんだと思います。社内に、いい意味での面倒な人、――いわゆる「職人気質」な人が少なくなったことを実感しますね。皆が楽をしたいと思っているのだろうし、それは、僕自身も楽をしたいと思う心はあるから、その欲求も分かるんですよね。
(次回に続く)
作者: P     时间: 2009-2-26 14:31     标题: スタンガンを見せ合いながら話はできない

水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(5)



――バックグラウンドを見せずに「正義」の理屈だけで他人と関わろうとする「無敵の匿名性」、さらには人と関係する面倒さを避け、成果だけは得ようとする「ショートカット志向」。これには人が育たないという大きな落とし穴がある。水島監督の時代を見るポイントが出そろってきました。これらの「欲望」に向き合いつつ、打ち勝つ作品をどうつくるか、いよいよ放映中の「機動戦士ガンダム 00(ダブルオー)」に絡めてお聞きしたいと思います。
 これらの欲望に立ち向かうキーワードとして、前回、面倒をいとわない「ダイレクトな接続」という言葉が出てきましたが。

水島 そう思います。「人と人の繋がり」というのが、僕自身の心のテーマのようで、作品を作るときも何らかの形で入るんですよ。
 人に言われて気づいたんですけど、僕の場合は、どんな作品を作るときもテーマの根幹が共通しているみたいで。人と人との繋がりとか、人同士が繋がることで、登場人物たちがいる世界が少しでも良くなるとか、そういうことが描けたらいいなと思っているんです。
 今の「ダブルオー」では、「平和」……というと漠然としていてつかみどころがないけれども、「争いをなくすにはどうするか」を考えられるよう、描いてみたいなと。
 作品を観た若い人に、自分の周りの争いをなくすことについても、すこしだけ考え
てもらうきっかけになればという気持ちもあって。

――自分の周りの争いをなくす、といいますと?
疑心暗鬼のスパイラルから抜けるには
水島 “隣の人と仲良くしよう”ということですね。隣の人と向き合って、本当の関係性を作ろうよという。
 たとえば、職場の人も身近な隣人ですよね。自分の職場の人たちと仲良くしてみよう、というふうにとっていただければと思います。

――監督がおっしゃる「本当の関係性」というのは、地位に頼らず、相手に自分の顔・知識・経験をさらけ出すことから始まるわけですよね。匿名性の無敵さを捨てなければ、さらけ出せない。
 今の時代、職場の人と本当の関係性を作るのは難しくなっていませんか。職場環境が厳しくなって、利害関係が対立しがちな昨今ではなおさら。

水島 会社みたいに、有無を言わさず深く関わらざるを得ないコミュニティにいる人たちこそ、手を繋ぐべきだと僕は思いますけどね。地位や役割のような“匿名”に隠れたり、相手を、あの人はエライ人だから頭を下げておけばいいや的な“匿名の人”扱いして遠ざけようとせずに。

――たぶん「こちらが手を繋ごうと手をさしのべても、相手が同じように友好的に手を繋いでくれるとは限らない」と思うことが、匿名の後ろに逃げ込みたくなる理由だと思うんです。相手が、自分だけは得をしようと考える人だとしたらどうでしょう。自分の利益だけ優先させる人に対して、自分の知識・経験をさらけだして手を繋ごうとしても、利用されるだけではないかという。
水島 確かに人間は、本能で自分の利益を優先させる生き物だ、と思います。
 でも、職場の隣に座っている人ときちんとコミュニケーションをとって関係性を作ることが、お互いのメリットになると思うんですよ。
 職場の中で、立場が違うというだけで相手に反感を持ったり足を引っ張ったりすると、誰も信じられなくなる。信じられないから、自分もガードが堅くなる。みんながそうなってしまうことで、仕事の知識も経験も共有されなくなる。会社の居心地も悪くなりますよ。
 今の時代、そういう疑心暗鬼スパイラルこそが、職場だけでなく、社会全体を悪くしているという気が僕はしますね。会社が厳しい今だからこそ、職場の人間がまとまったほうがいい。
 僕なんかもいろんな会社の人やスタッフと付き合いますけど、手こずる相手はやはりいるんですね。相手が何を考えているのか、何を一番大事にしているのかがわからないという。でもそこであきらめずに、「この目の前の人とどうやったらコミュニケーションが取れるか」とアプローチ方法を考えて、トライ&エラーを繰り返すと、何かしら相手のことが見えてくるんです。

――「隣の人と手を繋ごうよ」と言われて、自分の顔・知識・経験をさらけだしたら、そこで相手に「評価」されるわけですよね。「評価」というのは「値踏み」でもあります。相手に値踏みされる、自分が見下されるのではないかという不安もあるんじゃないかと。
相手が理解できないから、恐怖が生まれる
水島 「見下されるのが嫌」、つまり相手より劣位に立ちたくないと思う心理の根源には、相手に対する恐怖があるんじゃないですか。

――確かに、相手が何をするかわからない、それは恐怖かもしれません。もしかしたら、手を繋ごうとした相手がスタンガンを持っている可能性があるかもしれないと。
水島 「相手がスタンガンを持っている」と考える……そう考えてしまった段階で、手を繋ぐことができなくなると思うんですよ。
水島 相手に対する恐怖があるから、「この人より優位に立たなければ」と思ったりする。優位に立っていれば少なくとも害はなくなると考えるから。相手より優位に立とうとするから、対立して争いになる。

――スタンガンの危険性を想定して自分が備えると、相手もスタンガンを持ち出す、という構図が成り立つわけですが。
水島 人間関係でも国家間でも、あらゆる対立が同じ理屈で起きていると思います。
 本当は、その疑念をなくそうという努力が必要だと思うんです。
 相手を恐怖に感じるのは、相手のことがわからないからだと思うんですよ。
 相手は何を欲していてどんな行動に出るか。欲求や行動の動機がわからないと不安になる。
 欲求というのは、「価値観」に基づくもの、ですよね。価値観がわからないというのは、利害関係の対立よりもやっかいだと思いますよ。

――価値観というのは相手がして欲しいこと、されたら嫌なことでしょうか。それがわからないと無意味に相手を怒らせたり、自分も怒ったりしそうですね。
水島 そうですね。相手の要求が、自分にとっては不可解なものだったりすると、恐怖も怒りもわいてくる。そういうのが一番やっかいで。人間、理解できないものが一番怖いのだと思いますよ。
 この「相手のことがわからない不安」が、コミュニケーションの一番の障害なのかなと僕は思ったんです。
 これが、僕が今すごく気になっているテーマなので、「ダブルオー」にも盛り込みました。最初の企画会議のときに、「コミュニケーションが成立しないことが原因で戦争が終わらない」という設定はどうだろう、と提案したんですね。
 登場人物それぞれが、互いに全く違う価値観を持った国で生まれ育ち、価値観が違うために思いの行き違いや対立が起こる、という物語はどうだろうと。
 今の時代、「どこかに絶対正義があって、絶対悪がある」なんていうことはないじゃないですか。世界でも僕たちの周りでも。みんな自分の利益が欲しいから主張をするのだし、自分が正しいと思うことが正しい、良いことなのだと思っている。ところがそれぞれが自分の正義を主張することで、争いは拡大していく。「ダブルオー」ではそういうところをテーマの一つにしたかった。
多様化する価値観が、対立を産む確率を上げている?
水島 個人間でも、利害関係があったり、立場が違う者同士が手を繋ぐ難しさがある。「ダブルオー」では、そうしたコミュニケーションの難しさを、国家間戦争にもスライドさせてみようと。
 それぞれの国が異なる立場と事情を持っていて、それぞれの思惑が複雑に絡み合うことで、争いが終わらないという。そういう状況を作ろうと思いました。

――個人間の価値観の相違によるディスコミュニケーションを、国家間にまで広げたのですね。それはなぜですか。
水島 今の時代は、大量の情報が飛び交い、多様な価値観が存在している。互いの価値観が錯綜し、そのために対立が多く発生していると思ったからです。
 国の話に置き換えれば、それぞれの国の立場と事情と思惑が複雑に絡み合っていて、たとえば隣の国と仲良くしようとしても、向こうの事情としては、もうひとつの友好国との関係もあるから仲良くしにくい。あちらを立てればこちらが立たずという連鎖を呼んで、争いが拡大していく。

-- それを描くために、ダブルオーは二極間の対立ではなく、勢力を複数にして、複雑に絡み合い対立していく状況を描いたわけですね。
水島 ガンダムに乗る主人公たちを初めとして、宗教、民族、国という、「対立の元」になる括りを取り去ることで世界に秩序をもたらそうとしている人々がいる。だけど、「対立の元」にアイデンティティを求めている人もいるから難しい、そんな矛盾も、構図として出したいなと思ったんですね。
では、価値観が違う相手とどう話すか

――監督が、価値観の違う相手とどのように接していくかを考えるようになったのはいつ頃でしたか。
水島 いつ頃からか、自然と考えるようになりましたね。僕は、小学校の頃はいじめられっ子だったので、力でかなわない相手がいたときに、「こいつに正論をぶつけたり自分が正しいと思ったことをぶつけても、しっぺ返しを食らうだけなんだ」と思わざるを得なかったわけです。
 そういう子と別に仲良くなりたいとも思わなかったので、彼が怒るようなことはなるべく面と向かっては言わないようにしようと。いつかこいつらは痛い目に遭うぞ、遭うべきだなんて思いながら(笑)、小学校、中学校ぐらいは過ごしていました。僕自身は特別暗い子というわけじゃなかったですけど、ごく自然と自分の身を守るすべのようにそういうふうに考えるようになっていましたね。

――なぜいじめられたのだと思いますか。
水島 癇に障ったんですよ。大したことができないくせに、生意気なことを言うから。今でも言っている内容自体は間違ってないなと思うんですけどね(笑)。親がわりときちんとしたしつけをしてくれていたので、気になったんですよ、ルールを守らない人が(笑)。
 でも彼らは、ルールを守らないで悪いことをしていても、有り体に言って腕力があるので、力で周囲を黙らせていて。クラスにはその子に腰ぎんちゃくみたいに集まる子とかもいて、そういう構図も嫌いだったんですね。
 それで、変な正義感だけあったので、物言いをつけては殴られる、と。
 何か俺ってすごく損してないか? 遠巻きに見ていればいいじゃん、みたいなことが頭をよぎったりするんだけれども、どうしても自分が正しいと思うことをつい言ってしまうんですね。

――正義感や倫理観を抱えていても、外側に対してはうまく立ち回れない、そういう状態だったのですね。
水島 そうですね。最初はそうでした。

全肯定はムリ、でも「正しい」と考えなければうまくいく
水島 そこで、じゃあどうしたら相手の気分を悪くせずに、自分が言っていることを理解してもらったり、注意したりできるのかなと思うようになりました。
 やはり頭を使うこと、工夫ですね。もう本当に言い方次第だなと。コミュニケーションを工夫しようと思ったのは高校ぐらいからです。僕の行った高校は、わりと風紀の良くないところだったので、暴れん坊がいっぱいいたんですよ(笑)。それで、そういう人たちに対して頭から正論で押してみても、基本が斜に構えている人たちなので無理なんですよね。
 だから彼らに、「気に入られる」というと媚びているみたいですけれど、友好的で害がない人間と思われた方が、何か言ったときに言うことを聞いてくれるので、ぶつからないようにしようとしていました。
 そうしたら、相手も別に、はなから悪人でとんでもないヤツかというとそうじゃなくて、共通の話題にはすごく食いついてくるし面白い人たちだったとわかったんです。それで高校時代にはそういう人たちに対しても免疫ができて、コミュニケーションもうまく取れて面白かったですよ。
 それからだんだんわかってきたのは、さっき言った「自分の正論は、相手にとっての正論じゃないんだな」ということでした。逆に言うと、正論を、「自分が正しい」というふうに貫こうとすると、必ず悪く誤解される。相手は自分とは違う人間で、違う価値観を持っているわけで。

――違う価値観を持った人同士が、どのように手を繋げば良いと考えましたか。
水島 相手の好きなもの、嫌いなもの、正しいと思うもの、それらを全部肯定するのは無理ですよね。相手の価値観を全て受け入れるのは不可能なんです。僕も自分の中に、普段は無自覚な偏見があるし。
 ただ、「相手の価値観は自分と違う」と認識するだけでも、結構違うと思うんですよ。相手を自分と同じ価値観を持つ人間だと思うから、なぜ俺の言うことを理解してくれないんだ、と腹が立ったり行き違いが生まれてしまう。こんなはずじゃなかった、と。
「匿名」で見るのをやめることから
水島 だから、相手を「匿名」で見るのをやめる。相手を、地位や役割という大ざっぱなくくりに追いやって、相手の個人的なパーソナリティを想像せずに「あの人は○○の所属だから」とカテゴライズしてしまうと、そこで思考停止してしまって、相手のことを理解することができなくなるんじゃないかと。

――やはり一対一に立ち戻ることですか。
水島 そう思います。大切なのは「相手と同一であること」ではなく、「違っているお互いを認識し合うこと」なんだと思う。
 それが、相手のことをどこまで思いやれるか、ということだと思うんです。

(次回に続く)
作者: P     时间: 2009-2-26 14:33     标题: 無敵になれるのを待つより、手を組むほうが早い

水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(6)


―― 前回は、“職場の隣人”と深い関係性を築くことが難しい理由は、相手が理解できないことからくる恐怖心にある。恐怖は、相手の価値観を「自分とは違うもの」として理解することで克服できる、というお話でした。
水島 相手の価値観を理解するといっても、完全に理解することはできないわけですが、相手の価値観は自分とは違うというところが、かえっていいんじゃないかと僕は思いますね。価値観が違う人と手を繋ぐことで、その人の価値観に影響されたり、その人の物の見方を自分の中に取り込んだりできるから、豊かなものを得ることができるのではないかと。
 相手の価値観を取り込むなんて、言うのは簡単でも実践するとなると難しいんですけどね。僕も、「ダブルオー」でひとつ、痛い経験をしているんです。
自分の手法と脚本家の手法が並立しないときに


 「ダブルオー」で脚本を担当してもらってる黒田洋介さんとは、この作品で初めて組む事になったんですが、僕は最初、彼が本領を発揮しにくい方法をとってしまったんです。
 ダブルオーは、大勢の集団が登場して、個々のドラマを持ちながら、その集団どうしも少しずつ関わっていくような、そんな「群像劇」のスタイルにしたかったです。
 群像劇を描くときには、人1人に対して割ける尺(時間)は少ないから、どれだけ短いシーンで人物を表現できるか、セリフ1つひとつの説得力が勝負になってくるわけですが、黒田くんの面白さは、セリフの掛け合い。たくさんの会話を積みあげてキャラクターを立たせていく手法が持ち味だったですね。なので、シナリオを詰めていく段で、僕が入れたいそれぞれの内容に対して黒田くんがセリフを書いていくと、30分の尺に入り切らなくなってしまった。そこで、その話数内で消化しなければならないエピソードを収めることを優先し、セリフを短く刈り込んでいったんです。

―― どうなりました。
 キャラクターの面白みが消え印象が弱くなってしまった。
 黒田くんならではの、相手との会話の中で立ち現れるすごく奥の深いセリフや、人物の衝動、そういう大切なところがなくなってしまったんです。
 わりと早い段階で、僕の今のやり方だと、どんどん言葉を刈り込んでいくことになるから、黒田くんらしさがなくなるんだと気がつきました。
 それで、群像劇は群像劇でも、僕が思っているバランスからは離れるべきだと思ったんです。

―― 黒田さんのよさを生かすために。
 そうです。僕は以前、群像劇の上手な脚本家と組んでいたので、その彼とのやり方に慣れていたんですね。
 それで、黒田くんに対して、知らず知らずのうちに、そのときと同じやり方を強要していたのかもしれないと気がついたんですね。それで自分のやり方を変えることにしました。

―― 具体的には。
「自分ではできないこと」のために、他人と組むはず
 プロット(筋立て)を見て、自分が望んでいる部分が複雑で入りきらないと思ったら、そこの部分は主張しない。キャラクターにある立ち回りをさせたかったとしても、そこに持っていくためにはもう2つぐらいプロセスが必要だと思ったら、もうばっさりそのシーンはカットして他の方法で圧縮する。

―― ご自身が入れたかったシーンも、切ったりしたのですか。
 ええ。僕のほうで変えられることは変えてしまいたかったんです。だって、せっかく黒田くんと一緒にやっているのに、僕が「そうじゃないんだよな」なんて言って、構成を変えたりセリフを書き直してしまったりしたら、それ以降の構成は崩れて、黒田くんの負担は増えるし、仮に上手くいったところで僕のレベルに留まってしまいますから。

―― 前におうかがいした、自分ではできないことをやるほうが、面白くできる(「人を育てない組織は必ず復讐される」)のお話ですね。
 そうですね。僕が黒田くんに対して、そうじゃないんだ、こういうふうに書いてくれと言うのは、本人のカラーにないものをねだっていることになると思うんですよ。それは相手に対して失礼ですよね。相手と向き合わないで、自分が思っている幻想を押しつけるということは。そうじゃなくて、黒田くんと「向き合う」ということは、彼のいいところを引き出して、共にフィルムでもって、もっと高いところに持っていくことですよね。
 そこで、キャラクターの造形に関してどうするかは、黒田くんと改めてディスカッションをして、その中で、彼のやりたいことを最大限活かすようにしました。

―― その結果、いかがでしたか。
 キャラクターの面白さがすごく膨らみました。
 セリフ回しも生き生きとしてきましたし、それまで地味だったキャラクターがある瞬間にぱっとはじけるような描写とか、人物の躍動感がすごく増しました。
「相手に合わせよう」とする人同士ゆえの難しさ

―― ぶつかってみて、ようやく気づいたこともあったと。
 そうですね。実のところ“手こずって”いましたから。
 ここまでは、自分から見た場合の話をしましたけれど、これは黒田くんの側も同じ思いでいたようなんです。実は彼のほうも早い段階から、僕とのやり方を探ってくれていたんですね。

―― それなのに、どうして手こずったんでしょう。
 ここが人間関係の面白いところというか、黒田くんと僕が手こずった理由は、どちらも「相手に合わせよう」というタイプだったからだったんですね。

―― 価値観は違うけれども、人へのアプローチ方法は似ていた。
 そうなんです。そのためにかえって、最初の頃は、彼とどのようにやっていくのが良いのか分からなかった。黒田くんは社交性が高いタイプだから遠慮するし、僕に合わせようとしてくれるから、ぶつからないんですね。それでも二人とも、ある程度仕事を長くやってきているので、多少の違和感があっても形にはなってしまう。お互い探り合っている時間が長くて、相手の特性に気づくまでは大変でした。
 でも、こんな行き違いがない限り、今の「ダブルオー」は描けなかった。
 僕と黒田くんは、メンタリティが全く別だから、幅が出たんだと思います。彼とディスカッションしていると面白いんです。はっきりと主張してくるんだけど、それが論理的ではない所がある。男気があるというか熱いというか、いわゆる少年漫画の中で描かれるような竹を割ったような人間像に近くて、それはすごく共感できる。それでいて大人の社交術も持っているから、すごいバランス感覚だなと。そういう黒田洋介の人間性というものが、すごく「ダブルオー」にも生きていますね。
「善意の歯車」を回せ
 主人公の刹那の思想が一貫してくれているのは、黒田くんのおかげだなと思います。黒田くんは「刹那は監督のものだ」と言ってくれているんだけど。
 僕がセリフを刈り込んだり、キャラクターをぶれさせたとしても、黒田くんが書くことで、線が一本ぴしっと通るんです。上がってくる脚本が僕のイメージと違っていても、一緒にディスカッションをした後のものなので、こちらも納得できてしまう。

―― 「手こずっていた」というおっしゃり方もしていたのに、180度変わりましたね。
 相手のいいところを見つけるのも楽しいんですよ。この人のここはいいな、と。相手を理解しよう、理解したいと思うと、善意の歯車が回り始めるんじゃないかなと思うんです。

―― 善意の歯車は、自分と価値観が大きく異なる相手ほど、必要な気がしますね。
 人と話すとき、言葉の捉え方で意味が変わってくることってありますよね。悪意を持って解釈すればこう取れてしまう、みたいな。でも、相手への疑念とか恐怖がなくなれば、相手のことを善意に解釈することができると思うんですよ。

―― 「相手が怖いからスタンガン(武器)を持つ」(前回参照)という負の連鎖とは正反対の、正の連鎖が起こるわけですね。相手が怖くなくなれば、身構えることもなくなると。
 自分が武器を捨てれば、相手がこちら側を善意に解釈してくれる可能性は上がりますよね。

―― 逆に、相手の側が、こちらを怖がって身構えている場合もありますよね。向こうが「値踏みされるんじゃないか」と考えているかもしれない。そんなとき、相手に武器を捨ててもらうにはどうすればよいとお考えになりますか。
 自分のほうから先に相手を評価すれば、相手も恐怖をなくす、と思うんです。相手と友好的な関係を築こうと思ったら、自分から先に相手を評価してあげるアクションが大事なんじゃないかと思いますね。
他人を認めることと利益とは背反しない
 結局、「他人を認めること」と「自分の利害を一致させる」ことは、背反するものではなく、バランスを取ることができるんじゃないかと思うんですよね。
 相手と自分が手を繋ぐことで、自分にとって良いことが起きるかもしれないという希望の下に手を繋ごうと。そこを拒んでしまったら、良いことが自分に起きないかもしれない。もしかしたら2つ先に手を繋いでいる人のおかげで、良いことが起こるかもしれないし。
 「良いことを見つけるためには、みんなで手を繋ごうよ」と考えるところもあって。それはいろいろな人と手を繋ぐことで、1つだけではない様々な良いことが起こり得るということなんですね。みんながポジティブ思考でもって手を繋げば、ポジティブな思考も連鎖するんじゃないかな、とは思います。

―― 相手に悪感情を抱かない連鎖、ですね。
 だから若い人には、いろんな人と手を繋いでみようよというのは言いたいかなと。自分1人の世界に閉じこもっていてもつまらないじゃないですか。いろいろなものを知ったり、感じたりするほうが、ずっと人生の楽しさは増すわけだから。
 じゃあ、自分の場合はどうしたら手を繋げるかというのは、1人ひとりと会って、話をしてみながら考えていけばいいんじゃないかなと。「自分のパーソナリティーだと、この人とはうまく向き合えない」ということであれば、順繰りに探していけばいい。もしかしたら広い世界には、自分とすごく合う相手がいるかもしれないのだから。
 よほど合わない人とは、距離を置くということで、1つの平和的な関わり方ができるということもあるし。

―― 距離を置くことも手段のひとつですか。
 僕はそう思いますね。誰とでも100%分かり合うとか仲良くなることはできないから、この相手とはどれくらいの関わり方なら可能かなと考えて、立ち位置を作っていけばいいのだと思いますよ。
 他人を100%は理解できなくても、どこかの部分で繋がっていれば、それで楽しいんじゃないかなと。
 苦手な人だって、「僕はあなたのそういうところは苦手なので、変えて欲しい」と正直に言ってみたら、相手もすこし対応が変わるかもしれない。自分が対応の仕方を変えることで、相手とうまくいくようになることもあるよね、という。
 大事なのは、自分の近くにいる人と会話を始めることなんじゃないかと。
 変えられるところと変えられないところ、それを踏まえてどう付き合っていくかというのも、「相手と向き合う」という行為、ですね。

―― 「自分はひとりでいたいから、ほうっておいて欲しい」という人もいると思いますが……。
 ええ、人と関わるのが苦手だ、という人もいるでしょう。それはそれでいいのだと思います。でも、人と接しよう、世界とつながってみようとしたのに、うまく「接続」できないから、すねている。そんな人もいますよね。
 極端なたとえですが、家にひきこもって、ネットで何かの悪口ばかり書いている人だって、本当に世の中が嫌いで関心もなかったなら、そんなことさえしないはずなんです。
最強のスタンガンを持ってから、世の中とつながりたい?

―― もしかしたら、悪口を言うことも、世の中に関わりたい欲求だということですか。
 そう思います。世界なんてくだらない、と言う人は、逆に言うと、世界と何かしらの繋がりを持ちたいと思っているのでしょう。
 もっとも、今の若い子がコミュニケーションが取れていないかというと、そんなことはないと思いますけどね。
 ただ、自分が知らない人、コミュニティが違う人に対しては深く関わろうとしないですよね。僕たちの若い頃より、家や小さなコミュニティに籠もれる分、臆病になっているのかもしれないなと。よく、心の中で理由付けして、「今はまだその人と関わるタイミングじゃない」とか「近しい距離ではない」とか言っているんですよ(笑)。若いのにもったいないと思います。
 人と握手をするのは自分が誰にも負けないスタンガンを手に入れてから、と思う気持ちもわかる。相手に対する恐怖もあるでしょうし、自分のプライドも守りたい。
バチバチっとやられてみるのも「経験値」
 でも、一度、相手にスタンガンでバチバチっとやられてみるのも「勉強」なんですよね。ちっさなプライドがぱーんと壊れるかもしれない。
 相手が自分に危害を加える人間かどうか、場数を踏んだ方が見極められるようになりますし(笑)。
 コミュニケーションは、踏み出さないと何も始まらないので。それは本当に今の若い子には伝えたいですね。
 苦労をしてでも人と繋がること、それをひとりひとり「みんな」ができれば、もっと世の中に快感や楽しさが満ちてくる。そうなれば、作品を作る側もずいぶん楽しくなるなあ、とか思ったりしているので(笑)。

(次回に続く)
作者: P     时间: 2009-2-26 14:34     标题: 世界は変わらないけれど、到達すべき目標はある

水島精二監督「機動戦士ガンダム00」(7・最終回)



水島 結局僕は、作品作りやスタッフワークを通して、「場作り」をしたいのかもしれないと思うんですよ。

―― 「場作り」とは?
 みんなが仲良く共存できる場、ですね。
 皆が1人ひとり、隣の人間と向き合って、相互に理解し合って距離を置くことも含めて付き合えるようになれば、それぞれの繋がりが“大きなひとまとまり”になる。皆がゆるやかにひとつにまとまれば、大きな諍(いさか)いは生まれないんじゃないかと。

―― “大きなひとまとまり”というのは、一種のコミュニティでしょうか。
 そうですね。「ダブルオー」では、それをわかりやすく「地球」というふうに描いているんですけれども。皆が「地球」という1つのコミュニティを共有していると考えて、その「場」を大事にすれば、所属の違い、立場の違いで大きく対立することもなくなると思うんですよね。
 「ダブルオー」で描いている国家間、勢力間の対立は、僕たちのいる世界、職場や学校や近所なんかで起きている諍いと似ています。イコールではないけれど、それらを反映しているのも確かです。「所属と立場の違い」は、それだけ諍いに発展しやすいという。
 作品ではここをゴールにしようという着地点も決めているのですが、登場人物それぞれが、どうしたら自分たちが住む世界の争いをなくせるかと考えて、動いていくような形にしたいと思っています。どうしたらこの世界がみんなが繋がって、豊かな、平和なものになっていけるか。国や宗教や人種という「所属」以外のところで、人は1つになっていかなきゃいけない、なろうよ、というふうに持っていこうと。
 ひとりひとりが、所属や立場を超えて隣の人と手を繋ぐことができれば、争いはなくなる、世界平和でさえ夢ではないと、僕は結構本気で信じているんですよ。

―― どんな方法があれば「ひとつに」なれると思いますか。
シンプルな関係、一対一に立ち戻る
 今の時代、世の中が複雑になっていますよね。国家間においても、利害関係の持ち方も一様ではない。どの国が敵なのか味方なのかわからないし、誰が言っていることが正しいのかがはっきりしない。世の中の仕組み全体に目を向けることが難しくなっている。
 世界のあちこちから、さまざまな不満が噴き上がってきて、そこを細かく調整につぐ調整というのが今の世界の政治で、だんだん、何のために作った制度なのかわからないものも出てくる。でもそうしないと世の中が成り立たないわけで。
 世の中が複雑で、誰もが自分ひとりの頭では把握しきれないから、自分の生活が悪くなっている理由を探したり、自分を脅かしていると想像される“象徴悪”を探したり、一方的な見方だけで政治家などを批判する。「匿名批判」も、そうした綻びのひとつじゃないかと思っているんですが。

―― 国も人も、何が正しいのかわからないから、迷走すると。ではひとつになるには……。
 世の中がもっとシンプルになればいいのにとは思います。どうしたらシンプルになるんだよと言われたら、分からないのが正直なところ。
 ただ、シンプルにするためには、最終的には一対一の関係に行き着かざるを得ないと思うんですよ。

―― やはり目の前の相手と向き合うということでしょうか。
 関係値として、「人と人」というシンプルなところに全部立ち戻るというのは、1回やってみてもいいんじゃないかなと。すごく投げっぱなしな言い方ですけど、法律なんかなくしてしまえばいいのに、国とか宗教の垣根なんかなくしてしまえばいいのに、と思うときがあります。

―― それは人と人の信頼をベースにした社会という。
 そうですね。それが「共存の場」だと思うんです。人の言葉を揚げ足取りのように取って、言った言わないでケンカしたりとか。法律も、解釈の仕方で変わってくる部分をどう明言するかでもめていたりしてね。解釈を「悪意」の方向に持っていかれないためには大変な言葉を要するけど、その厳密さで人を縛ることが幸せだとは思えないんですね。

―― 悪意を持った解釈や勘違いがなくなれば、善意の歯車が回り始めるということですか。
 そうすると最初の心根の話になってきて、みんな優しくなればいいのに、人の言動を善意に解釈しようよ、と思うんだけど。
 これもまた言うは易く、実践は難しいという話になってきてしまうんですが。
“共有地の悲劇”を避けるには

―― 「共存する場」を作るためにはどうすればよいとお考えですか。
 一番足を引っ張るのは、「自分の利益しか考えない」ことだと思うんです。自分が欲しいものを得るために、他人がどうなっても構わないという考え方はどうなのかなと。
 自分の所属するグループの利益だけ考えるのも同様だと思います。
体面を保つためとか利益を得るために、他所を潰そうとすることはないじゃないか、と。
 「コモンズの悲劇」という言葉がありますよね。共有地で自分だけの利益を優先させると、奪い合いばかりになり、結局は土地が痩せて全員が貧しくなってしまうという。

―― 苦手な相手とも手を繋ぐと、巡りめぐって自分にもメリットが返ってくると言うお話がありましたが、それと同じことが「共有地」にも言えると。
 企業間でも、小さなパイを強奪し合うよりも、それぞれの企業が自分のいる業界全体が良くなるために動いたほうが、結果的に自社も豊かになっていくという理想は周知の事実なわけですが、自由競争社会では「それはカルテルだ」と怒られちゃったり、理想を口にしている間に誰かに出し抜かれるんじゃないかと思うから、なかなかどの企業も率先してやろうとはしないし、できないわけです。

―― 「共有地の豊かさ=自分の利益/不利益になる」と直結できるイメージ作りが必要と言うことですね。
 それも「共有地」を豊かにするひとつのポイントなのだと思います。
 世の中の人々の認識を変えるのは現実には難しいけれども、「ダブルオー」の中でも、イメージ作りにトライしてみたんですね。
 沙慈(さじ)という日本人の青年を登場させたのですが、彼は、別の国で起きている戦争が、自分とは無関係なものだという気持ちでいたんです。ところが恋人が戦いに巻き込まれて傷つけられたことで、争いを起すもの全てを憎むようになる。沙慈はガンダムに乗る刹那たちを非難するわけですが、そんな彼自身、戦地から逃げるためにした行いが、結果としてたくさんの人を傷つけることになってしまったというエピソードを入れました。

―― 自分の行動は、巡りめぐって“職場の隣の席の人”に関係してくるということですね。
「全く無関係」はありえない、その時取るべき態度
 自分のいる場所の延長線上で起こっていることが、「自分とは関係ない」ものであるはずがないと思うんですよ。
 自分だけが豊かで安全であればそれでいいという落ち着け方は、世界が共有地である限りできないのでは、と。「ダブルオー」ではそういうことを投げかけてみたかった。じゃあ、あなたの大事な人が危険な場所に行ってしまったらどうする? もうそれで他人事じゃなくなるよ、という実感を少しでも視聴者に感じてもらえればと。

―― 仮に、世界の誰もが「自分の居る場所はすべてが共有地だ」という認識を持ったとして。ここからはシミュレーションになりますが、「共有地」を成功させるためにはどのようにすれば良いと思いますか。
 「自分のリスクは自分で引き受ける」。そうすると、全体が向上していくと思うんですよ。

―― リスク、と言いますと?
 自分のやることに対して責任を負う態度、だと思います。
 「共有地で自分の利益だけを追う」状態というのは、単に金銭の問題ではないと思うんですよね。
 職場というひとつの共有地があって、そこで進んでいるプロジェクトが滞るのは、いろんな人が自分の利益だけを追求するからだという話があるとして。
 その時の個人的な利益というのは、金銭や出世以外にもあると思うんですよね。特に今は出世が第一義の人は少なくなっているし、ポストの上昇が金銭に直結しない場合もある。それなのに、プロジェクトという船が座礁してしまうことがある。

―― その場合、その個人が追求している「利益」とは一体何だと思いますか。
絶対正義が船を沈める
 「俺の考えややり方が絶対正しいんだ」という心ですね。自分が絶対正義であると主張することが、他人の価値観ややり方を全否定することになる。船頭多くして何とやらと言いますが、己の正義がいろんなものの足を引っ張っていると思うんですよ。
 前に、今の時代には、「正義でありたい欲望がある」と言いましたけど、俺が正義だという主張も欲望の形のひとつであって、己だけの利益を追求する行為とほとんど変わらないと思いますね。
 ……逆に言えば、僕自身にも「正義でありたいという欲望」があるからこそ、こういうところにこだわってしまうのかもしれません。
 だからこそ、「ダブルオー」では絶対正義などない、という描き方をしたかったんです。異なる価値観をそれぞれ持ったたくさんの勢力を出したのも、そういう理由からでした。ある価値観の正しさを主張する勢力があれば、逆の価値観が正しいと思う勢力もあるというような。
 主人公たちは、ガンダムという兵器を使って各地に武力介入をして戦争根絶を目指すのですが、別の地点にいる人から見れば、「テロ行為」にしか見えないという。
 「自分がやった“正義の行い”からも、他者の恨みや間違いは生まれてくる」という話なんですね。
秩序は理解から生まれる

―― 昨年、米国で大ヒットした映画「ダークナイト」みたいですね。米国がはまりこんでいるのがまさにそれでしょうか。「正しさを追求する行為」が、共有地を荒らす可能性はおおいにありますね。
 何が正しいのかを追求する行為自体は大切で必要なことだと思うんですが、自分の答えが絶対ではないわけで。
 自分が、自分勝手な利益追求者になっていないか、絶対正義の罠に陥っていないかどうか。他の人の意見を聞くことで、相対的に自分の立ち位置がわかる気がします。僕がいろんな人の話を聞くようにしているのも、そういう理由なのかもしれないですね。

―― 自分が間違っているのではないかという検証や、間違っていたら直そうという行為は、自分がリスクを引き受ける、責任を負う態度でもあると。
 自分の利益追求者ばかりにならないように、共有地には「秩序」が必要で。
 秩序は、共有地の住人の共通認識から生まれるわけですが、その認識は、自分と相手が互いに理解し合うことで共有できると思うんです。
 相手の価値観を受け入れることは面倒だしストレスも生じるけど、リスクをひとりひとりが少しづつ負うことで、共有地は豊かになっていくし、結果として自分にも、個人で追求するものよりも、もっと大きなリターンが返ってくる。
 みんなが同じ場を共有しているんだから、自分の利益だけ求めるのではなくて、自分でもリスクを背負って、他人の価値観も容認しながら、みんなで手をつないで生きていこうよというのが僕の理想なんですよ。
手を繋ぐことはできるか

―― そういう人たちが増えれば、「こんなやつと手を繋ぎたくないよ」ということはなくなるでしょうか。
 なくならないんじゃないですかね(笑)。

―― なくならない?
 それはだって、言っている僕自身が常に、「自分がそうなればいいのになぁ」と言いながら、ならないですからね。
 だから「ダブルオー」も、主人公たちが(ガンダムという)武力で戦争を根絶しようとする、矛盾した設定になっているんですね。武力で平和をもたらそうというのは、彼ら自身も、矛盾した行いだとわかっているわけです。強大な武力を持ちながらも自分の無力さに気づく、というお話でもありますしね。
 でも、若い人たちにこうしたシミュレーションを見てもらって、自分の周りのことを考えるきっかけになれば、この作品を作った意味は僕的にはあるわけです。
 ……だってどう考えても、この(武力介入という)やり方だと平和は来ないと思うんですよ(笑)。
その欲望を、否定する

―― そうしますと、主人公たちはいわゆる「ヒーロー」にはなれませんよね。だとしたら、お話を見ている人たちのいろいろな「欲望」の落ち着け先はどうなるのでしょうか。
 完全無敵のヒーローは成立しません。しちゃいけないんですよ。
 マイスター(ガンダムの操縦者)たちが、だんだんと何かを成し遂げる。でも、成し遂げたけれど、その先はどうなるの? みたいな終わり方になると思いますね。だってほら、世界って変わらないじゃないですか。
「これが彼らが変えた世界です」なんて提示してしまうと、誰かすごいヒーローがいれば問題は解決するというふうにとらえられてしまう。それはリアルじゃないし、真実ではないですから。
 でも、ガンダムマイスターたちが努力して成し遂げて変わった部分、「世界の中でこのぐらいのことは起こるでしょう」というものは提示します。そこは、ちゃんと見せてあげたいなとは思いますね。
 スーパーヒーローの奇跡の力ではなく、大勢の人々の、世界の規模からしたら小さくしか見えないような働きかけが、少しづつ連鎖して世界を変えていく、それでいいんだと思います。
 作品を見ている人が「じゃあ、こういうすごいヤツがいればいいんだな」と言って、物語の本をパタンと閉じてしまうのではだめなんですよ。一人一人が、自分自身がリスクを取ってそうならなきゃいけない。「すげえよ、ガンダムマイスター」で終わっちゃいけないんですよ、この作品は。

(水島監督インタビューは今回が最終回となります)
作者: sk86    时间: 2009-2-26 15:28

我不的不感叹....
求人翻译还不如自己去学日语....
作者: xiluo3344    时间: 2009-2-26 15:31

谁发发慈悲至少把最后一段翻了吧忽忽。。。。。。
作者: homeway7677    时间: 2009-2-26 15:43

其实我觉得,水稻是不是自己在打自己耳光??
虽然Meister不厉害,可是高达却是实实在在的强。。。
作者: SONIC668    时间: 2009-2-26 16:34

看得我头都晕了
还是看翻译版好
虽然勉强看明白
作者: ZAGATO    时间: 2009-2-26 18:04

LS的两位哥们儿,看懂了就说说大意
作者: shinwys    时间: 2009-2-26 18:33

勉强看完第一页后决定还是等翻译
作者: wwc1988    时间: 2009-2-26 20:01



QUOTE:
原帖由 homeway7677 于 2009-2-26 15:43 发表
其实我觉得,水稻是不是自己在打自己耳光??
虽然Meister不厉害,可是高达却是实实在在的强。。。

不这样主角群连活下去都有问题
现在打了那么久a-laws和变革者越来越得势
都就只有找出veda,CB才有机会达成目标
甚至达成后可能换来的是同归于尽
作者: 天海之痕    时间: 2009-2-26 20:44


要不让google
翻译一下~~~~
虽然好多不是人话~~~~~
作者: pboy    时间: 2009-2-26 21:10

太长了~实在是不想看啊~支持了先~
作者: homeway7677    时间: 2009-2-26 21:20

看了一大半了。。。
其实真的有用的是后面两页。。。说了水稻怎么看纷争,和怎么解决纷争。人与人之间的关系应该要简单,要相互理解;个人应该要自己承担自己的风险和责任,这样纷争和斗争才会减少。

他举出了“公用地悲剧”(有兴趣可以去google),所有人都为了自利而向公用地索取,结果造成所有人的损失。个人应该要对公用地负起责任,这才是个人的社会责任感。而维护共用地,要靠秩序。

另外他也认为,武力介入是不能解决纷争的。戏中他也不想设立绝对的正义或绝对的恶。他认为Gundam Meister不是超级英雄,他们所做的事,是要让世界都明白,每个人出一份力,世界就能更美好。。(当然我觉得,Meister不强,Gundam很强。)
作者: mika11    时间: 2009-2-26 22:01     标题: 回复 #17 homeway7677 的帖子

Gundam從來都是"愛與和平"的故事
作者: homeway7677    时间: 2009-2-26 22:04


仕様が無いな。。。
作者: mumubear    时间: 2009-2-26 22:50



QUOTE:
原帖由 homeway7677 于 2009-2-26 21:20 发表
看了一大半了。。。
其实真的有用的是后面两页。。。说了水稻怎么看纷争,和怎么解决纷争。人与人之间的关系应该要简单,要相互理解;个人应该要自己承担自己的风险和责任,这样纷争和斗争才会减少。

他举出了“ ...

先找到VEDA,再让刹那去地球把公主接到VEDA上 给OO加个增幅器,然后开OO让公主唱歌给全人类听。

这个就是所谓的“即将到来的对话”么?。。。

但是如果刹那接公主回来晚了赶不上决战,那天人的便当就要多发几个了。。。
作者: YAICUSarashi    时间: 2009-2-27 17:09     标题: 回复 #10 homeway7677 的帖子

+1

作者: ZAGATO    时间: 2009-2-27 18:02     标题: 回复 #20 mumubear 的帖子

支持!
那不是在抄袭macross f 吗?
作者: Nicole    时间: 2009-2-27 18:24

来来,我虽然不懂甲片语言,但至少还乐于为大众做点贡献,摆渡成果如下:

这是某人的博客,看起来比纯理论好理解的多.丫的,原来就是一个解决"囚徒困境"的模式....很好很天真  不过并不和过去咱强调的那些相违背:为的就是强调一个能另参与方都能接受的秩序而展开的.秩序哪来?道德的约束和立法的完备. 原来水稻相信这样世界就能和平,社会就能有条不紊,原来他是康德的信徒....

哈丁公用地的悲剧在于每一个人都陷入了一个体系而不能自拔,这个体系迫使他在一个有限的世界里无限的追求自己的最大利益,从而毁灭将成为大家不能逃脱的命运.

   设想某地有一个只有两户人家的小居民点,由于道路情况不好,与外界的交通比较困难。如果修一条路出去,每家都能得到“3”那么多好处,但是修路的成本相当于“4”。要是没有人协调,张三、李四各自打是否修路的小算盘,那么两家博弈的形势如下:如果两家联合修路,每家分摊成本“2”,各得好处“3”,两家的纯“赢利”都是“1”;如果一家修另一家坐享其成,修路的一家付出“4”而得到“3”,“赢利”是“-1”,坐享其成的一家可以白白赢利“3”(假设修路的并没有路的地权,他总不能因为修了路就不让邻居走);如果两家都不修路,结果两家的赢利都是“0”。
   我们就得到这个博弈的严格优势策略均衡:两家都不动手,大家都得“0”。
   一般来说,如果彼此只有一家邻居,他们多半会守望相助,关系比较好。这样的两家自然会好好商量修路的问题,一起把路修好,大家都得到好处。
   相反,两家有仇也是可能的,那就麻烦了,不是什么修路不修路的问题,迟早要出事。但是,博弈论讨论所牵涉的局中人,都是经济学上所讲的“理性人”,他们只为己,但是并不刻意害人。现在城市公寓里面的不少居民在邻里关系上,有时候差不多就是这种理性人的关系。
   对于他们来说,都市化进程的一个副产品,就是即使是近邻也形同陌路。如果没有公寓物业管理方面的制度安排的话,新公寓家家装修一流,可是楼道就杂乱无章,常常还阴暗的很。路灯坏了,往往长久没有人修理。修路灯也和修道路一样,是一个大家都袖手旁观的博弈。
   这就是公共物品供给的“囚徒困境”:如果大家都只从自己得益多少出发考虑问题,大家都只打自己的小算盘,结果就是谁也不作为,对局锁定在“三个和尚没水吃”的局面,排除了合作双赢的前景。

   一个古老的英国村庄,有一片向一切牧民开放的牧场。当牧民养牛的数量超过草地承受的能力时,过度放牧就会导致草地逐渐耗尽。尽管草地的毁灭最终会使每个人的利益都受到损害,但每个人计算的仅仅是自己增加一头牛的收益会高出自己所付的成本,因而会尽可能的增加牧牛的数量。这使得每个人在追求自身利益最大化的过程中,实际上在共同损害着包括自己在内的每个人的最大利益。最终结果可能是所有的牧民的牛均饿死。

   这就是公共资源的悲剧,也称为“哈丁公用地悲剧”。美国学者哈丁在一篇重要而具影响力的文章中提到,不加限制的个人选择可能给社会带来灾难。
   对公用地悲剧的防止有两种办法:一是在制度上的,二是在道德约束上。
   所谓制度的方法,即建立中心文化的权利机构,无论这种机构是公共的还是私人的--私人对公用地的拥有,即处置便是在使用权利.
   例如,在河水污染问题,每个企业都会为了使自身收益最大化而无限制地向公共河流中排放污水,每个个人也会因为只考虑自己的方便而向河水中乱扔污物.对此,公共管理机构或是可以通过制度创新,将河水的清污费用"内化"为企业的成本,或是通过制裁措施增加个人污染河水的成本.没有这样的公共管理措施,公共河流就会像前面所说的公用牧场一样被人们共同破坏掉.
   不同情况下,公用地悲剧可能成为一个多人囚徒困境(每一个人都养了太多的牛)或一个超出负荷的问题(太多人都想做畜牧者).
   经济学家最喜欢的解决方案是确立产权.也也是十五,十六世纪在英格兰真实出现的事情:公有土地被围起来,落入当地贵族或地主手里.
   主人可以收取放牧费,使其租金收入最大化,而减少对土地的使用.此举改善了整体经济效率,却同时也改变了收入的分配:放牧费使主任更富有,使牧人更贫穷.
   这一规定在其他场合并不适用.公海的产权很难在缺少一个国际政府的前提下确定和执行,控制携带污染物的空气从一个国家飘向另一个国家也是一个难题.基于同样的理由,捕鲸和酸雨问题都要借助更直接的控制才能处理,但建立一个必要的国际协议却很不容易.
   正如哈丁提到的那样,人口是一个更加艰巨的难题.决定要生几个孩子,似乎是做父母的个人自由,但是如果人们都倾向于多生小孩,就会造成人口爆炸的危机.现在很多人认识到:生育不是一种自由,而是有限的权利.
   古人讲究"修身齐家治国平天下",似乎是从小到大一样的逻辑.其实人们对待"家事"和"国事"的逻辑并不一样,原因很简单:"修身齐家"的好处是可见的,而"治国平天下"的好处就不那么清晰可见了.
   ......
   所以,公共品问题一定要有人协调和管理.就一个国家来说,最重要的公共品是国防,教育,基础设施和其他政府部门.
   政府责无旁贷,要用好来自纳税人的钱,把文化教育,社会保障,基础设施和国防公安等事情做好.社区要有专人协调管理,把身边看起来很琐碎但是弄不好有损工作和生活环境的事情做好.只有如此,才会走出"哈丁公用地"的悲剧.
作者: 伊川    时间: 2009-3-1 12:59

感叹一下,一部有着这样好的主题的作品却因为细节描写的不足以及观众本身的扭曲而得不到理解,不知这是导演的悲哀还是观众的悲哀。




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